サッカージャーナリストの草分け的存在で、フリーランスの記者の大先達である賀川浩さんが12月5日、神戸市内の病院で逝去された。99歳の高齢で、老衰とみられている。今月29日が誕生日で、百寿を迎えられる前に天寿をまっとうされた。 昔からのサッカーファンなら誰もがその名をサッカー専門誌などで耳にしたことがあるはずだ。サッカーダイジェストに勤務していた時代には、「賀川浩のサッカーセミナー」というタイトルで大人のためのサッカー入門講座を18回連載し(当時は月刊誌)、その後「サッカーくに・ひと・あゆみ」では35か国(各2~4回)にわたる長期連載を執筆された。 毎月届く400字詰め原稿用紙10枚ほどの手書き原稿をワープロ打ちするのは編集者としての楽しみだった。「サッカーくに・ひと・あゆみ」は各国のサッカー事情だけでなく、文化的・歴史的背景まで掘り下げた内容で、「三菱ダイヤモンドサッカー」での岡野俊一郎氏(元JFA会長)解説以上の深さがあった。 1924年生まれの賀川さんは神戸一中(現神戸高)からプレー開始。大阪SCでは全国優勝し天皇杯準優勝2回。兄・太郎氏は日本代表として活躍した。元日の天皇杯決勝では長沼健氏らが率先して挨拶に行くほど尊敬されていたが、本人はいつも気さくな対応だった。 1952年産経新聞入社後、74年西ドイツW杯から自費取材するなど熱意を持って活動。クライフやマラドーナへのインタビューでも「あの子はね」と父親のような眼差しで接していた特攻隊経験者(戦時中)であり阪神大震災では仕事中のため奇跡的に生存。「寝てたらお陀仏でしたよ」と笑って語っていたエピソードも。 ワインとチーズを愛した温厚な語り口とは裏腹に二度死線を越えた人生だった。日本スポーツジャーナリズムの発展に尽くした功績は計り知れない。
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